[忍びの国] 映画無料視聴

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動画情報

[ 言語 ] – 日本語
[ 名前 ] – 忍びの国
[ 監督名 ] – 中村 義洋
[ 公開日時 ] – 2017年7月1日
詳細

概要・あらすじ・ストーリー

天正4年(1576年)、北畠信雄は家臣の長野左京亮、日置大膳、柘植三郎左衛門と共に義父で元伊勢国司の北畠具教を討った。 同じ頃、伊賀国では国人の百地三太夫と下山甲斐の小競り合いの最中であり、絶人の忍びと謳われる無門が甲斐の次男である次郎兵衛を討ち果たしていた。 伊勢を落とした織田家と境を接することとなった伊賀は評定の末に織田家の軍門に下ることを決め、その決定を信雄に伝える使者として甲斐の長男平兵衛が選ばれた。 次郎兵衛が殺されても平然としている父に内心反発していた平兵衛は、信雄に伊賀攻めを進言する。 伊賀の出身で平兵衛と同様に伊賀者を「人間ではない」と唾棄していた三郎左衛門の進言もあって信雄は伊賀攻めを決め、手がかりとして伊賀の丸山城の再建をすすめることにした。 織田方から使者が来ると聞き、三太夫と甲斐はほくそ笑む。 彼らの目的は織田軍に勝ったという箔を付けることで下人たちの雇い口と収入を増やすことであり、平兵衛の裏切りは2人の策だったのだ。 信雄が抱える最大の戦力である大膳は旧主である具教を弑した事で信雄との間に遺恨があり、また伊賀の忍びを武士以下と見下していたため参戦を拒む。 三郎左衛門は銭に目がなく情のない伊賀者の習性を過信し、織田方が供出した大金に三太夫たちが飛びついたと思い込んでいた。 これらのことも全ては伊賀の忍びが得意中の得意とする心を読み操る「無門の一関」なる業によるものであった。 天正6年(1578年)、計画通り織田方の資金で城を再建し、三郎左衛門が伊賀者を城に閉じ込めて攻めようという目論見の上を行き、完成させたところで三太夫は城を焼き払い、織田方に痛撃を与えた。

天正7年(1579年)、とうとう織田方が攻めてくるという。自衛のための戦なので銭は出ないということに下人たちは反発し、半数が逃散すると決めた。その状態では勝てるわけはなく、戦自体を止めるしかないと考えた無門は織田方に直談判に行くが、大膳との談判はうまくいかず、田丸城に忍び込み信雄の寝込みを襲うが失敗。あまつさえ不参戦を決め込んでいた大膳に「無門の一関」を悟られ、信雄との不和を利用されていた事に気づいた大膳は信雄と和解し参戦に転じてしまう。 1万余の軍勢での伊賀攻めが始まり、数の上でも装備の上でも劣るうえに大膳の剛勇も加わり、伊賀者は劣勢に立たされる。 そのころ他の下人と一緒に伊賀を出ようとしていた無門は「なぜ逃げねばならぬのか」と不機嫌になるお国の様子を見て思い直し、ひょんなことで入手した北畠家の家宝の茶入「小茄子」を元手に「雑兵首には十文、兜首には十貫、信雄が首には五千貫を払う」と下人たちに伝え、形勢逆転をはかる。 銭が出るとわかった下人たちの勢いはすさまじく、なりふり構わない戦いぶりに織田軍は総崩れとなり伊勢へと敗走した。 田丸城に侵入して信雄を討とうとした無門だったが、平兵衛に阻まれる。「川」という伊賀の決闘手段で平兵衛を倒したが、決闘の前に平兵衛が語った話で十二家評定衆への怒りを募らせていた無門は、信雄のことはいったん置いて伊賀に取って返した。 そして十二家評定衆を糾弾し刃を向けた。 「無門を討ち取った者は生涯夫役を免じる」という下知が出され無門は下人たちに囲まれる。その時お国が無門をかばって命を落とし、自らの愚かさに気づいた無門は伊賀から姿を消した。

三太夫の思惑通り、天下の織田軍に勝利したということで下人の雇い口は増え価値も高騰した。 だがそれも長くは続かなかった。 織田信長は天正9年(1581年)、4万4千余の軍勢で伊賀に攻め寄せた。 伊賀者は老若男女関係なく討たれ、伊賀の国は壊滅。 そこには安土城の信長の元へ単身忍び入り、「伊賀を滅ぼさねばおのれの命はない」と焚き付けた無門の策があった。

[Wikipediaより引用]

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