[関ヶ原] 映画・動画無料視聴

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動画情報

[ 言語 ] – 日本語
[ 名前 ] – 関ヶ原
[ 監督名 ] – 原田 眞人
[ 公開日時 ] – 2017年8月26日
詳細

概要・あらすじ・ストーリー

六十余州を束ね天下人として君臨してきた太閤・豊臣秀吉が死の床についた。後継者たる世子の秀頼はいまだ幼く、諸大名は秀吉の死を機に再び世は乱れると見た。来るべき大政変の中心と諸侯が目したのは、五大老筆頭の徳川家康であった。温厚な徳人として知られた家康であったが、秀吉が病臥したことを境に天下簒奪の野心を露わにし、水面下で策動を始める。これに対し秀吉の信任篤い五奉行の石田三成は、その野望から豊臣家を守るために立ち上がった。乱世において稀有な理想主義者であり、狷介なまでに潔癖な性格から「へいくゎい者」(横柄者)と仇名される三成は、豊臣家の権勢が揺らぐや露骨な媚態を見せて家康に擦り寄る諸侯の醜悪さを激しく痛罵する。豊家の護持のみならず、世道人心のためにも義を立て不義を滅するという信念から、三成は家康と戦うことを決意する。

やがて秀吉が薨ずると、家康はいよいよ野心の牙を剥いた。秀吉の在世時より、豊臣家中には戦場で奔走して豊臣家の創建を助けた武断派と秀吉の天下が定まるにつれて政権運営のために重用された文治派の確執があった。豊臣家の弱体化を狙う家康はこれに目をつけて舞台裏から巧みにその対立を煽り、殊に文治派の中心人物である三成と自らが手懐けた武断派の大名を争わせ、両派の抗争は小戦が起こらんばかりに発展する。三成は命を狙われることになるものの、家康の腹の底を看破し自身の利用価値を知悉する三成は、敢えて家康に庇護を頼み窮地を脱した。辛うじて難を逃れた三成であったが、五奉行の職を辞さざるを得なくなり、中央政界から身を引くこととなる。領国の近江国佐和山で逼塞することとなった三成だったが、しかしこの男には心中密かな腹案があった。秀吉死後の動乱を見越して築城した堅城・佐和山城に籠もり、三成は臥薪嘗胆の一念で家康打倒の機会を待った。

三成が退隠してほどなく家康は大坂城に入り、豊臣家の家政を一手に収めた。西の丸に居座った家康は北陸を領する前田氏を家康暗殺の謀議に加わったと糾弾し、世情はすわ戦かと騒擾する。事実無根の言いがかりであったが前田氏はひたすら平身低頭して恭順を誓い、ついで家康は会津の上杉氏に謀反を企てていると因縁をつけた。そして家康が会津征伐に乗り出すと、三成はここぞとばかりに兵を挙げる。家康の狙いを辺境勢力に討伐軍を出して野戦体制のまま幕府を開くことにあると見た三成は、かねてより上杉氏と示し合わせて家康が軍を出した後に自らも近江で挙兵し、上杉氏と共に挟撃するという一大構想を立てていたのだった。自らの雄大な構想に絶対の自信を持って決起した三成であったが、しかし家康はそうした三成の行動をありありと予測していた。家康の真の狙いは会津征伐に応じて兵を挙げるであろう三成に逆臣の烙印を押し、三成とその旗の下に参集した反徳川大名をまとめて討ち滅すことにあった。下野国小山の評定において従軍諸将の協力をとりつけた家康は、反抗勢力を討滅して一息に天下を取るべく三成との対決に臨む。

会津征伐の兵を巧みに天下簒奪の私兵に変えた家康は、奥羽の大名に上杉の押さえを頼むや軍勢を転進させて西上を始めた。他方、三成も毛利・島津・長曾我部といった西国の雄を味方に引きこむことに成功し、近畿の敵方属城を潰しながら東進を始める。奥州から九州まで、日本全土が東西両陣営に分れる古今未曾有の大戦が始まった。家康と三成の双方が主戦場と目したのは東西の交通の要衝である美濃国であり、三成率いる西軍主力はいち早く西上した東軍の先鋒部隊と美濃を舞台に小競り合いを始める。やがて家康率いる東軍本隊も美濃に到着するが、家康は三成に目もくれずに大坂を目指して行軍を始める。慌てた三成は行く手を塞ごうと西軍主力を大移動させるが、それこそ家康の思う壺であった。戦が長引いて造反者が出ることを危惧した家康は、西軍の主力を会戦におびき出し、一度の戦闘ですべての決着をつけるつもりであった。東軍の進軍を阻もうと西軍が立ちはだかったのは、美濃西端に位置する関ヶ原。畿内への入り口であるこの広闊の野において、両軍の主力はついに激突することとなる。

東軍七万五千、西軍十万もの大軍が一堂に会し、決戦の火蓋が切られた。西軍は数で勝り、迅速な布陣が功を奏して地の利も得たものの、しかし諸将の足並みが揃わず戦況は芳しく進まなかった。三成が驚愕したのは戦が進んだ後も多くの部隊が自陣を動かぬことであった。家康は事前に西軍諸将に周到な調略工作を重ねて多くの将の内応を取りつけており、戦局が佳境に入った後も西軍は自陣からただの一歩も踏み出さぬ部隊が多く出た。全軍の柱石として三成が最も恃んでいた毛利氏も動かず、西軍は総勢の実に三分の二が戦況を傍観したまま微動だにしないといった異常極まりない軍容となった。それでも残る部隊は死に物狂いで奮戦し、寡勢ながらも善戦して次第に東軍を押していった。戦の趨勢は大きく変わり、西軍の思わぬ健闘に内応諸将にも動揺が広まった。三成は勝利を確信するが、ところが家康に恫喝された西軍の小早川隊が突如として東軍に寝返り、友軍に襲いかかった。この造反を引き金として寝返りを約束していた他の諸将も次々と東軍に加わり、西軍はたちまちのうちに潰乱させられた。西軍は総崩れとなり勝敗はここに決するが、三成は再起を図って戦場から離脱する。

単身美濃を脱出した三成は、命からがら近江の旧領まで辿り着き、領民の庇護を受けた。心身ともに疲弊しきった身体を休めながら、三成は自らの行動を回想する。家康の邪な野望から豊臣家を護るため、義によって天下の耳目を聳動させる大戦さを起こした。だがその志は利を餌に巧みに諸侯の欲心をつかんだ家康によって無残に打ち砕かれ、あろうことか豊家の社稷を奪おうとしたなどという汚名まで着せられた。利害という現実の前には義という理想は空論であった。しかしかつての三成の善政を謝し、死罪も恐れず三成を匿おうとする領民もいる。やがて捜索隊に所在が露見すると、三成は自ら出頭する覚悟を固める。自分がここで遁走すれば自分を匿った領民が罰せられる。領民の命懸けの義を裏切るような真似をすれば三成は不義の輩と評され、かの戦いも不義の戦と解釈されるであろう。領民の義に応えることで己の義挙を示すことを決断した三成は、自らの所在を捜索隊に知らせ、捕縛されることとなる。

三成はほどなく大坂に移送されて市中を引き回され、その後に京の六条河原で斬首された。辞世はない。が、この男は引き回しの最中にも我が身の威儀を保とうとし、凛とした風姿を崩さず貫いた。そして刑場で首を落とされた後も転がった首の目は豁然と見開かれ、刑吏が慌てて引き起こすまで東山の天を無言のまま睨み続けた。

[Wikipediaより引用]

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